呪紙
どこにでもある、ありふれた町だった。
大通りにはコンビニがあり、その角に入っていくと閑静な住宅街が広がっている。
時間はすでに深夜を回っていた。人を含めた昼間に動く物たちはすべて眠りについていた。
街頭の明かりが薄暗く光る夜道の隣に、一軒の家があった。白い2階建ての家で、大きさから家主が裕福であることが分かる。
その家の道に面した部屋で、一人の少年が気持ちよさそうに眠っていた。
角刈りの頭に運動で鍛えていると思われる逞しい体つき。そしてお世辞にも可愛らしいとは言えない厳つい顔。
規則正しく寝息の音を部屋に響かせながら、少年は寝返りを打った。しかし、顔の向きを変えた少年の頭はまるで別人のようになっていた。
月明かりに照らされた髪の毛は、艶やかなロングヘアーになっていた。
なにも知らない人がそれだけを見れば、こんなくせ毛一つない見るからにさわり心地のよさそうな髪の持ち主は、すごい美人だろうと思っただろう。
しかし、その持ち主の顔は角ばった厳つい男の顔だった。
だが、それも一瞬のことだった。
薄暗い部屋の中で、少年の顔が丸く、小さくなり、布団の中に顔が埋まった。
2度目の寝返りを打ったとき、少年が眠っていたそのベッドから少年の姿は消えていた。
そこには、質の良いストレートロングの髪に小柄な顔に体。そして天使のように可愛らしい寝顔をした10代のはじめ頃と思われる少女が可愛らしい寝息を履きながら、気持ちよさそうに眠っていた。
少女はブカブカの男物の無地のジャージを着ており、部屋の内装も武骨で華やかさのかけらもなかった。
しかし、そんな味気ない部屋に華が生まれた。それはほかならぬ少女が身につけている物から発生した。
少女が着ていたジャージの上下が明るく鮮やかな色に変わると、淡い赤色を基調としたパステルカラーの可愛らしいパジャマに変わった。
脱ぎ散らかってた服は消え去り、ドレッサーに掛けられていた黒を基調とした洒落気のない服たちが、お洒落で可愛らしい服に生まれ変わった。
しかも、変化はこれで終わりではなかった。
少女が横になっている布団のカバーがフリルやレースがあしらわれた可愛らしいデザインの物に変わった。
さらに部屋の中からプラモデルや少年漫画、少年が今まで入賞してきた大会のトロフィーなどが消え去ると、可愛らしいヌイグルミや少女漫画、そしてミシンなどの裁縫道具がどこからともなく表れた。
ほんの少しの間に、部屋の中はすっかり様変わりしていた。
小さい子が見たら100人中100人が泣いてしまうような顔だった少年が眠っていたベッドには、天使のような寝顔で眠る少年がいるだけであり、部屋の内装も新たな主にふさわしい物に変わっていた。
外は、変わらずに暗いままだった。
どこにでもある、ありふれた町の一角で、一人の少年の身に非常識な出来事が起こったことに気付く者はなく、だれもがみな、深い眠りの中にいるのだった。
「なんだ、これ」
青柳土筆は荷物を段ボールの中に入れる作業を中断すると、押し入れの奥にあった箱を両手で抱えた。
「こんなもの、持ってたか、俺」
黒塗りの見るからに高そうな箱に、蓋と入れ物を結んでいる赤い紐。まるで浦島太郎の話で出てくる玉手箱のような箱がそこにあった。
「紛れ込んだにしても、中を見ればわかるか」
土筆は蝶結びになっている紐の端を引っ張ると、蓋を開けた。中には、一枚の紙が入っていた。
「なんか書いているな」
紙には、可愛らしい女の子のイラストが描かれていた。おそらく妹が昔書いた絵だろう。イラストのすぐ隣には小さな文字がたくさん書かれていた。
「う、うわぁ!?」
よく見ようと紙に土筆の手が触れた瞬間、紙はまばゆい光を発した。眼をつむっていてもまぶしいくらいの光を受け、土筆は眼が眩んでいた。
「兄貴、今の光なんだよ」
うるさい足音がしたと思ったら、ドアの方から小梅の声が聞こえてきた。声から察するに。もう光はおさまっているようだ。
「俺にも分からん。これが触れた途端に光り出したんだ」
「これって……それ?」
「あぁ」
土筆が眼をこすりながら自分の手を見た。そこには、先ほど見たイラストの輪郭があった。
「懐かしいな。兄貴のところに紛れ込んでいたんだ」
「やっぱり、お前のか。なんなんだよ、これ」
土筆は紙を小梅に手渡すと、もう一度眼をこすった。どうも、先ほどの光がかなりこたえたらしい。
「これね、昔隣町のおまじない屋さんに書いてもらったんだ」
「おまじないや?」
「うん。ほら、小6の頃の私って母さんの母校に入れられそうになってたじゃない」
「あぁ」
「それでさ、噂で隣町のおまじない屋で自分を理想の自分に変えられるって聞いて、行ってみたんだ」
「へぇー……それで、これが?」
「そ、書いてもらった奴。でも、おかしいなぁ……なんでだろ」
土筆は眼だけで話しの先を小梅に促した。小梅はばつの悪そうな顔をすると、土筆の顔から視線をずらした。
「その、ね。実はさ。箱を開けて、最初に紙に触れた人が、紙に書かれているとおりの人物になるっていうものらしいんだ」
「は?」
「だから、さ。私限定じゃないのよ。たぶん、さっきの光がおまじないの効力だと思うんだけど、変だよね」
小梅は土筆の体を足の先から頭の上まで注意深く見た。そこには、見慣れた土筆がいるだけだった。
「やっぱり、女の子の絵は女の子にしか効果がないってことか」
「あ、当たり前だ! 第一、この絵の通りなら、俺はお前よりも年下になっているだろ!」
「そうよね。敏も変わっちゃうし……あーあ。これ、高かったのに」
「知るか。それより、引越しの準備、お前もまだなんだろ。早く持って行ってしろよ」
「分かってるよ」
小梅は紙を丁寧に折りたたむと、箱の中にしまった。赤い紐で蓋を固定すると、何度も土筆の方を見ながら自室に戻って行った。
「なんなんだよ、あいつは」
小梅の様子に土筆は首をかしげた。しかし、部屋の中が視界に入って一気に現実に引き戻された。
明後日の朝にこの家に別れを告げるのだというのに、土筆の部屋にはまだ段ボールに入っていない荷物が沢山あった。
「あいつにかまっている余裕はないか。今日中に押し入れの中は全部終わらせないとやばい、よな」
土筆は大きな溜息をつくと、再び押し入れの荷物を段ボールの中に詰め込み始めるのだった。
親父の転勤が決まったのは2月の初めころだった。
小梅はちょうど高校受験の直前で急いで受ける高校を変えたりで大変だったらしい。
「兄貴、飯だってさ」
「あいよ。小梅は片付け終わったのか?」
「だいたいは。兄貴は?」
「俺もほとんど終わったよ」
「ふーん……そういうわりにはまだまだある気がするけど」
「ここにある奴で終わりなんだよ。大変なのは本の整理だけだ」
「そうなんだ。大変そうだけど、大丈夫?」
「楽勝だよ」
小梅は飽きれた調子を隠そうともしなかった。確かに、本棚一杯の漫画本や小説、アルバムを段ボールに詰めるのは大変だろう。
土筆と小梅はそろって廊下に出ると、そのままリビングに向かった。と言っても、部屋から出てすぐにリビングなのだが。
「あら、今日は珍しく速いわね」
「珍しいは余計だろ」
「だって、いつもご飯ていいてから、ずっと部屋の前で話しこんでるじゃない。ほら、早く席につきなさい」
青柳家の食卓は、大黒柱である冬芽の帰宅が遅くなるときを除けば、全員そろってから食べる決まりになっている。
だから、ご飯と言われて遅れると、結構怒られてしまう。
「いただきますっと……そう言えばさ、引っ越し先ってあそこだろ」
「あそこ?」
「あぁ。ほら、小梅が中学受験の――」
「あー。あれか……すっかり忘れてた」
「今頃気づいたの?」
今回、引っ越しする先は、お袋の母校の近くだった。
お袋は聞いた話だとかなり裕福な家庭に生まれたらしく、小学から私立の小学校へ通っていたらしい。
お袋としては自分の娘にも通って欲しかったらしい。小梅が小学にあがるときは、家の都合で無理だったらしく、中学受験をさせようとしたらしい。
「高校受験のときに、それとなくパンフレットを机の上に置いておいたのに」
「あそこって、小学と中学だけじゃなかったんだ……どおりで、なんか見覚えのあるところがあると思った」
「3年前のことだろ。気づけよ」
「そんなこと言われても……あのときはあまり乗り気じゃなかったしさ」
「そんなものか」
小梅の中学受験は、実は結構な騒動だった。
当時の小梅は親に逆らう勇気がなく、お袋に言われるままに受験しようとしていた。
実際のところ、小梅の学力は高く、受けたらおそらく合格していたと思う。
だけど、学校の帰りに泣いている小梅を偶然見かけ、本当は受けたくないと知った。そのあとは、まず親父を説得して、三人がかりでお袋を説得したのだ。
かなりしぶしぶだったが、高校のパンフレットをさりげなく置いているくらいだ。おそらく、あきらめがつかなかったのだろう。
「そうか。だからか」
「なにが?」
「いや、なんでもない」
さっきは、なんでおまじないなんかに頼ったのかと思ったが、理由が分かった。
今もそうだが、小梅は基本的に勉強よりも運動が好きだ。小学時代は男子に交じって遊んでいたせいか、中学に上がる頃には、すっかり気が強い男勝りな性格になってしまった。
確かに、そんな小梅がお嬢様学校に通っても、場違いなだけだろう。だから、あんな女の子になりたいだなんて思ったのだろう。
「それで、親父。俺はいつ合流したらいいんだ?」
「そうだな……こっちの引っ越しが終わったら、すぐに向かうよ」
「了解」
今回の引っ越し先は、偶然だが俺の通っている大学の近くだった。
これまでは気ままな一人暮らしをしていた。だけど家族が引っ越してくるのだ。俺も新しい家で一緒に暮らすのが普通だろう。
「気ままな生活もこれまでか」
「いいじゃない。ご飯も洗濯もしなくてよくなるのよ?」
「そりゃ、そうだけどさ」
正直、料理や洗濯は得意ではないので助かるが、これまでのように気軽に友人を家に誘えなくなる。やはり一人暮らしの魅力葉大きいのだ。
「ごちそうさま……それじゃ、先に風呂入ってくる」
「おそまつさま」
俺は食器を一つにまとめるとキッチンに運び、そのまま風呂場へ向かった。
「ふぅー……」
体を洗い、浴槽に入ると肩までつかった。今日はずっと掃除をしていたんだ。やっと体に染みついたほこり臭さとおさらばできる。
大きく伸びをしながら、すごい偶然だなと改めて思う。
親父の転勤先が大学近くだったこともそうだし、そこが3年前に引っ越しするかもしれない町だったこともだ。
だけど、同時にこうも思う。
3年前のあの日、俺が妹の泣き顔を見なかったら、どうなっていたのだろう。
お袋の話だと、廊下を走っただけで処罰の対象になるような学校だったらしい。そんなところに3年も通っていたら、今頃小梅も女の子らしくなっていたのだろうか。
「ま、あの絵だもんな」
当時の小梅がどれほどお袋の母校を恐れてていたかは、あの絵を見れば分かる。
小柄で見るからに女の子らしい女の子のイラスト――妹が言うにはおまじないの変身後の姿らしいが――に、裁縫や料理が趣味だという見た目通りの趣味。性格もおとなしくてで優しいなんて書いてあったか。
「ほんと、どれだけだよ」
そんな女の子がいるわけがない。もしかして、光るだけ光って俺の体に変化がなかったのは内容自体に問題があったのかもしれない。
「ま、なんにせよ、なにもなくてよかったぜ」
もしも……もしもだ。あのおまじないが本当に効いて、俺があの通りの女の子になっていたのだろう。
「なんか、寒気がした」
ま、まぁ。まず間違いなく、お袋は大喜びして無理矢理でも母校に入れるだろうな。
小梅もさすがに庇ってはくれるだろうが、あの紙通りの性格になったら……間違いなく行くことになるだろう。
あの紙通りになるということは……どうなるんだ? なんだか、とても嫌な感じがする。
「アホらし。結局何もなかったんだから関係ないだろ。……温まって、出よ」
何度も何度も先ほどの考えを振り払おうとしたが、風呂を出て部屋に入り、眠りにつくその直前までなぜか頭から離れなかった。
夜が明けた。
日が昇りはじめ、朝の散歩やジョギングをする人が街中に現れ始め、皆が一様にいつもと同じ生活リズムを刻もうとしていた。
そんな早朝に、本人の感覚ではいつもよりもかなり早いと感じる時間に目覚めた者がいた。
「まだ6時過ぎかよ――?」
可愛らしい部屋で、一人の小女が眼を覚ました。枕元の目覚まし時計を手に取った少女の眠たそうな目が不思議そうな顔になると、突然目を見開いた。
「なんだ、これ。俺、こんな目ざまし持ってたか――って、なんだよ、これ!?」
少女は部屋の中を見渡すと、叫び声をあげながら立ちあがった。
「ま、まさか――ない!? ちょ、か、鏡!」
少女はベッドから飛び降りると部屋を飛び出した。
少女は廊下に出て、洗面所に向かう。そして、目の前の鏡を凝視した。
「マジかよ」
鏡には、当たり前だが少女の姿が映っていた。
質のよさそうなロングヘアーに整った顔立ち。小柄で見るからに非力そうな体を可愛らしいパジャマが包み込んでいる。
少女は右手をあげたり左手をあげたり、変な顔をしたりした。鏡の中の像もそれと同じ動きをした。
それにしても、どこかで見た気がする顔だ。こんな可愛い女の子の知り合いはいないし、それどこかこの年頃の子とは縁がない。
「そ、そうだ。あれだ――あのイラストの女の子だ。てことは……うそ、だろ」
「楓ちゃん。朝から何をしているの?」
事態の原因に当たりを付けるのと、鏡に見慣れた顔が入り込んだのはほとんど同時だった。
小女は後ろを振り返ると、小梅に向かってゆっくり、そしてはっきりと言った。
「小梅……俺だ。土筆だよ」
「楓ちゃん、まだ寝ぼけているの? 楓ちゃんが兄貴なわけがないじゃない」
「――は?」
「本当に大丈夫?」
小梅が心配そうな顔で小女の顔を見た。小女は――楓は唖然とした顔で立っていた。
楓ってだれ?
そう言いたかったけど、楓には言う勇気がなかった。
ここで自分が土筆だと言い張れば、頭がおかしいと思われるだろう。
だけど、どれだけ信じてられない話でも、信じて貰わない事には始まらない。
「あら、楓ちゃんはともかくとして小梅ちゃんも今朝は早いわね」
「あ、母さんおはよう」
「お、お袋!」
睨めっこ状態で立っていると、花圃が眠そうな顔で入ってきた。楓にお袋と呼ばれた彼女は、変な顔で小梅を見た。
「楓ちゃん、どうしたの?」
「さっきからこんな感じなの。自分が兄貴だって言ったりさ」
小梅の話を聞いて花圃はさらに変な顔になった。そして二人を交互に見ると呆れた声で言った。
「二人とも何言っているのよ。私は男の子を生んだ記憶はないわよ?」
「え?」
小梅と楓の声が綺麗に重なった。
「いつまでも寝ぼけてちゃダメよ。ちょっといいかしら?」
どうやら花圃も洗面台を使うらしく、楓は場所を譲った。
「……どういうこと?」
「ひとまず、部屋に来てくれ」
「いいけど、ごめん。少し頭が混乱してるんだけど、楓ちゃんの部屋って、私の右隣の部屋だよね?」
「たしか……あぁ。いつもと同じ部屋から出てきたから間違いないよ」
「うーん……確かそこって兄貴の部屋だった気がするんだけど――あれ?」
「とにかく、部屋に来てくれ。話はそれからだ」
「うん」
「それと、昨日俺に見せた紙を持ってきてくれ」
「……分かった」
小梅は大きく頷くと自室に戻り、楓も自分の部屋に戻るのだった。
「それで、いったいどういうこと?」
「……たぶん。おまじないは効果があったんだ」
「おまじないって……本当に兄貴なの?」
「だからさっきからそう言っているだろ。ひとまず、原因はそれしか思いつかないんだ。あの紙をもう一度見せてくれ」
「いいけど――はい」
小梅から黒い箱を受け取ると、楓は紐を引っ張って蓋を開けた。
中から折りたたまれた紙を取り出すと、それを丁寧に開いた。そしてそれを見た楓の瞳が大きくなった。
「どうしたの――!」
後ろから紙を覗き込んだ小梅も眼を見開いた。
紙には、昨日の少女のイラストは書かれていなかった。
角刈り頭に厳つい顔、見るからに逞しい体を包み込んでいる黒一色の地味なジャージ。そのどれもに見覚えがあった。
「どうして、ここに兄貴の絵が描かれているの? 確か、ここには――あれ?」
「そうだよな……ここには、今の俺、"楓"の絵が描かれていたはずだよな」
「だけど、趣味とか特技とか、性格とかは変わってないよ?」
「おそらく……時間は分からないがこれから変わるんだろうよ。ひとまず、俺が青柳土筆だって信じるか?」
「もちろん。だけど、なんで忘れていたんだろ――いや、私だけ覚えているんだろう?」
「さあな。それも含めてだ。昨日言っていたおまじない屋と言うのがどこにあるのか覚えているか?
「覚えているけど……こんなにすごいものだったんだ」
「いったいどんな説明を受けたんだ?」
「箱を開けた後に最初に触った人を、紙に書かれている通りに変えるって言われただけ」
「変える……つまりは、文字通り、俺を、変えるということか」
「みたい、だね」
「すぐに行くぞ。時間は……余裕だな」
「すぐには、無理だと思うよ。だって、今の兄貴は実際はどうであれ、楓ちゃんなんでしょ?」
「らしいな」
「だったら……」
「楓ちゃん、まだ着替えてなかったの?」
小梅の話を遮るように、お袋がノックもせずに入ってきた。小梅はそれを見ると視線をずらし、話すのを止めた。
「ほんと、小梅が早起きするだけでも珍しいのに、楓ちゃんが朝御飯の準備をさぼるなんて……雹でも降るのかしら」
「あさごはんのじゅんび?」
「いつもしてるでしょ。ほら、早くしないとパパが起きちゃうわよ」
花圃は言うことだけ言うと、部屋から出て行った。
「つまりは、そういうことなのよ。それから、たぶん部屋の片づけが終わらないと家から出してくれないと思う」
「なんでだよ!」
「だって……楓ちゃんは、そう言う子だから」
「そう言う子ってどんなこだよ!?」
「ま、まぁ、落ち着いてよ。私も片づけ手伝うからさ。それならたぶん……昼前にはつくでしょ」
「本当だろうな」
「たぶんね」
楓は腕を組むと天井を見上げた。
あの紙が変わったものが入れ替わるように書かれる仕組みであると仮定すれば、俺や特技はまだ俺のままだ。
料理ならば、一人暮らしでそれなりに鍛えられているから、手伝うことはできるだろう。だから、ここは難しくない。
片付けも、小梅と二人でやれば2時間程で終わるだろう。そのあと、小梅が教えてくれた場所に向かったとしても、昼前には余裕でつくと思う。
だけど、問題は時間だ。
その時まで、俺が、俺でいることはできるのだろうか?
「考えている時間がもったいないか。着替えて手伝ってくる」
「それじゃ、私も着替えて準備してくるよ。3年前のことだから細かいところが微妙だから、思い出さなきゃいけないし」
小梅は立ちあがるとドアノブに手をかけ、楓はドレッサーを開けた。
「小梅、少し待ってくれ」
「なに?」
「きがえ……手伝ってくれ!」
楓の目の前には、ワンピースにブラウスに丈やデザインの違う様々なスカートがこれでもかと言うくらい掛けられている光景だった。
「仕方ないわね」
事情を察した小梅は両手を大げさに開くと大きな溜息をついた。
「本当に、楓ちゃんじゃないんだ」
幸か不幸か、小梅のつぶやきが聞こえた者はだれもいなかった。
「ほ、ほんとにこれでいいのか?」
楓が不安そうな顔で小梅に訪ねた。首をまわしたり、服の裾をつまんだりして、何やら不安そうである。
「いつも楓ちゃんが着ているやつだから、安心していいよ」
小梅は笑いたいのをこらえながら答えた。傍目にも彼女が今の状況を楽しんでいるのは明らかだった。
「そうは言ってもさ」
「そんなことしていると、時間がなくなるよ。男なら腹をくくって行きな――あ、今は一応女の子か」
「元に戻ったら、覚えてろよ」
楓は小梅を睨みつけたが、小梅は全く気にしなかった。
「今の姿で睨んでも、全く怖くないよ」
「くそったれ」
楓は自分の着ている服をもう一度確認すると、大きな溜息をついた。
たしかに、薄い青色を基調にした可愛らしいワンピースを身に着け、長い髪の毛を緑色のリボンで束ねている今の姿では、仕方がないだろう。
「ほら、早くいかないと、また母さんが呼びに来るよ」
「……はいよ」
楓は大きく深呼吸をすると、ドアノブに手をかけた。
「あ、一つ言い忘れてたけど」
「なんだよ」
「言葉使いくらいは、楓ちゃんらしくしたほうがいいよ」
「楓らしいって、どんなのだよ?」
「母さんに似ている、かな。とにかく、女の子らしかったよ」
「分かった、ワヨ。これでいいか?」
「ものすごく棒読みだけど、いいんじゃない? もう、様子が変だと思われているし」
楓は大きく深呼吸すると、ゆっくりとドアを押した。
「気を付けるワ」
楓はドアを閉めると、リビングに向かって足を踏み出すのだった。
「楓ちゃん、大丈夫?」
ダイニングに入ると、お袋が心配そうな顔で話しかけてきた。
「大丈夫ならいいけど……朝から二人して変な事を言うから、心配していたのよ?」
「ぁ……う、うん。もう、へいきヨ」
言葉を選んで、できるだけ女の子らしくを意識する。だけど、自分で話していても棒読みになっていることは分かる。
「目玉焼き、頼めるかしら?」
「りょ……分かった、ワ」
お袋は不思議そうな顔をしながら、冷蔵庫の方へ向かった。俺はフライパンをガスコンロの上に置き、温めると油を敷いた。
「あら……珍しいわね」
卵をひっくり返したところで、お袋が魚を抱えて戻ってきた。その顔は驚きのためか、眼が見開かれていた。
「あんなに、両面焼きにするの嫌がっていたのに……どういう風の吹きまわしなの?」
「――え?」
そう言えば、小梅は片面派だった気がする。今の俺は小学6年生の頃の小梅が望んだ姿だ。つまりは、あそこに書かれていないことは小梅が基本になっている――と、いうことか。
「パパはそっちの方が好きだから喜ぶと思うけど……あ、もしかして、二人で何か悪だくみしてるの?」
「そ、そんなところ、ヨ」
お袋は何やら一人で納得したのか、しきりに頷いていた。俺にとっては願ったりかなったりだ。
「そうなの……ふふふ……」
お袋は何やら一人で笑っている。俺は無視して、残りの目玉焼きを作るのだった。
――と言うか、普通目玉焼きの好みに合わせて焼き変えたりするのではないだろうか?
「もしかして、今の親父って……かなり立場弱いのか?」
「楓ちゃん、何か言った?」
「何も言ってない……ワヨ」
俺は焼きあがった目玉焼きや魚を野菜と一緒に皿に盛り付けると、お盆に載せて机に運ぶのだった。
「おー。今日は両面にしてくれたのか!」
部屋から出てきた親父は、机の上を見て大げさに驚いた。
少し遅れて出てきた小梅は一瞬不思議そうな顔で親父を見ていたが、何を思ったのか今出た自室に戻っていった。
「小梅ちゃん!」
「すぐに行くー!」
それを見たお袋が大声で叫んだが、小梅も負けじと大声で返した。
実際のところ、小梅は自分で言ったようにすぐに戻ってきた。その手には、何やら小さな包みが握られていた。
「はい、私と楓ちゃんからのプレゼント」
何の脈絡もなく小梅は親父にそれを差し出した。突然のことに親父は包みと小梅を交互に見、少しして俺を見た。
俺は何となく気まずい感じがして、視線をずらした。それでもやはり親父のことが気になり、そっと見てみると、親父はお袋の方を見ていた。
お袋を見ると、訳知り顔で何度も頷いていた。それでもまだ信じられないのか、親父の視線は再び包みに戻った。
「いったい、どういう風の吹きまわしだ?」
「ほら、いつもお仕事お疲れさまってことで。私は料理とかできないからこんなことしかできないけど」
小梅は、さも申し訳なさそうな顔でそんなことを言っている。だけど、親父は目に涙を浮かべていた。
「開けていいか?」
「いいよ」
嬉しそうに尋ねた親父に、小梅はぶっきらぼうに答えた。
返事を聞いた親父は、包装紙を丁寧に開けた。
「これは……?」
「もしかして、気に入らなかったかな?」
「い、いや! 小梅、ありがとうな」
包みの中は、革の財布だった。見るからに立派で、高校生になったばかりの小梅からしてみれば高価な買い物だったと思う。
「それじゃ、そろそろ朝ご飯を食べよ!」
小梅は大きな声でそう言うと、俺の隣の席に座った。俺もお袋も自分の席に座ると、いただきますをして朝食を始めた。
「おい、小梅」
「なに、兄貴」
小声で話しかけると、小梅も小声で返してきた。
「なんなんだよ、あれは」
「あれは、昔福引で当てた奴だよ。部屋を掃除していてで見つけたんだ。部屋を出たときの父さんと母さんと兄貴の様子から、私の記憶――楓ちゃんがいる方の記憶ね――からたぶんあんな感じがいしているんじゃないかと思ってやってみただけ」
「違ったらどうするつもりだったんだよ」
「いらない物を処分できただけだけど?」
なんだかものすごくうれしそうに母さんと話している親父がものすごく可哀そうになってきた。さっきからしきりと二人ともこちらを見ている。俺達の会話が聞こえている……ということは、ないと思うけど、内容が内容だけに気が気じゃなかった。
「小梅、楓。引っ越しの準備は終わったのか?」
「私は終わったよ」
「ぉ――ワタシはまだすこしかかる、カナ」
「どれくらいかかるの?」
「小梅――オネエチャンも手伝ってくれるって言ってくれているから、午前中には終わる、と思うワ」
「そうか……それなら、今日の昼から出かけないか?」
「え?」
俺と小梅の声が綺麗にハモった。
お袋たちはそんな俺達を見てお互いの顔を見ると、申し訳なさそうな顔になった。
「なにか、用事があったか?」
「えっと……片づけが終わったら、ほら、電車で7駅くらい行ったところにあるショッピングモールがあるよね。そこに一緒に行こうと思っていたんだけど……」
「それなら、一緒に行こう」
「……さっきも言ったと思うけど、冬牙さん、この後曜日があるはずよ?」
「どうにかキャンセルできる予定だから大丈夫だ」
「嬉しいのは分かるけど、やることはやらないとダメよ。いつも二人に入ってるけど、私たちがちゃんとしないと説得力無いのよ?」
お袋にそう言われた途端、親父の顔に汗が流れた。どうやら、お袋の権力がかなり大きくなっているらしい。
小梅が片づけが終わるまで出かけられないと断言した理由に納得しながら俺は箸を進めた。
「そ、それなら、晩御飯は外食しよう」
「それなら、問題はないわね」
「うん。私も別に良いよ。あ――楓ちゃんもそれでいいよね」
「ぃ、う、うん。それじゃ、ワタシは先に片づけ始めてる、ネ」
俺は立ち上がると食器を台所に持って行くと、すぐに部屋に戻るのだった。
「気が、滅入るな」
部屋の片づけを始めると、見覚えのない物ばかりだった。改めて、俺……"青柳土筆"という存在が初めからなく、代わりに"青柳楓"という少女がここで歴史を刻んでいたのだと知らされる。
「それにしても……すごい本だな」
俺の記憶では、本棚には昔集めていたマンガや雑誌が所狭しと詰め込まれていたはずだ。だけど、そこには見覚えのある物は一冊たりともありはしなかった。
洋裁や和裁の本に、刺繍の本やデザインの本。編み物や縫物の本に手芸雑誌が多数。おまけに料理関係の本もちらほらと見える。
「兄貴、やってる〜……ないみたいだねぇ」
「なぁ、小梅」
「なに?」
「この服って、もしかして……」
「想像通り、ほとんど楓ちゃんのお手製だよ。驚いた?」
「すげえなぁって……だけど、小梅が来ているような服は一着もないよな?」
「そりゃ、私が好きなのってジーパンとかシャツとか楽なのだから、そもそも好みが違うからだよ。楓ちゃんも作っても面白くないって言っていたし」
「そんなものなのか」
「……自分のことなんだから、分かれよ」
「何か言ったか?」
「何も言ってないよ。それより、さっさと終わらせよ」
「だな。服の方は頼んでいいか?」
「それじゃ、兄貴は本棚お願い」
「了解」
本棚の一番上に手を伸ばすと一冊抜きとる。そしてそれを段ボールに入れる。もう一度伸ばすと再び抜き取り、段ボールに入れる。
一冊一冊が俺にとっては物珍しく、一段終わるまでに少し時間がかかってしまった。小梅の方を見ると、服の整理は結構終わっていた。
俺は気を取り直すと、機会的に作業を進めた。淡々と本を段ボールに入れる。
「これって――」
あっという間に、残るは一番下の段だけとなった。そこには、分厚いピンク色のカバーが掛けられている大きなアルバムがいくつかあった。
俺は一番左側にあったアルバムを手に取ると、ゆっくりと開いた。
最初のページには、可愛らしいベビー服を着た赤ちゃんが、若いころの母さんに抱かれている写真が納められていた。
ページをめくると、園児服を着た女の子と、小学校の制服を着た小梅が写っていた。
「あ、懐かしい」
後ろから小梅の声がした。振り返ってみると、小梅が懐かしそうな目で覗き込むように見ていた。
視線をドレッサーの方に移すと、既に服は数着しかなかった。もうすぐ、終わってしまうだろう。
「この頃から。楓ちゃんは服にうるさかったんだよ。私のお下がりは嫌だって泣くし」
「そうなのか?」
「うん。ほら、めくってみてよ」
言われてめくってみると、昔小梅が着ていたような気のする飾りっけのない服を仏頂面で身につけている先ほどの女の子が写っていた。
「本当に、嫌だったんだな」
「そうだよ。たしか、私が中学に入るとき――楓ちゃんが小学4年の頃かな。裁縫を母さんに教わりだしたんだ。確かその頃のが……あった」
小梅が数ページめくると、そこには見覚えのない服を着たお下げの女の子が映っていた。
「それ、ブラウスもスカートも楓ちゃんが一人で作ったんだよ。詳しくは知らないけど」
「へー……」
「それよりも、そろそろ行かないとまずいんじゃない?」
「そろそろって……今何時だよ――って、もうこんな時間かよ」
「でしょ」
「すぐに入れるから、小梅も急いでくれ」
「私の方はもう終わったよ。明日の着替えはいるでしょ?」
どうやら、急がないといけないのは俺の方らしい。俺は急いでアルバムを閉じると段ボールの中に詰め込むのだった。
「それじゃ、行こうか」
他のアルバムは既に小梅が詰めていた。俺は小さく頷くとお礼を行って、先に部屋を出た。
「はい。楓ちゃん」
「なんだ、それ」
「――楓ちゃんの鞄だけど?」
「あ、なるほど……ありがとよ」
「そろそろ、話し方に気を付けた方がいいよ。変に思われるよ」
「りょ――分かったワ」
俺は大きな溜息をつくと、小梅から可愛らしい手提げかばんを受け取った。
俺達は並んで家を出ると、そのまま駅に向かって歩き出すのだった。
運のいいことに、駅に着くとすぐに電車が来た。
春休み中とは言え、微妙な時間だったこともあってか電車の中はすいていた。
俺達は並んで席に着くと、無言で20分ほど乗った。駅から出ると、俺は小梅の後ろに続いて歩き、バスに乗った。
バスの中は少し込んでいたが、15分ほど乗って下りた。そのあとは小さな道に入り、しばらく歩いた。
「ここよ」
小梅は立ち止まると、今にも潰れそうな建物を見上げていた。俺も見てみると、確かに屋号は呪屋となっていた。
「本当にここなのか?」
「間違いないよ。それじゃ、入ろっか」
小梅は立てつけの悪い扉を横に開けると、真っ暗な室内に消えて行った。
「大丈夫、なんだよな」
俺は大きく深呼吸をすると、後に続くのだった。
「!?」
店内に足を踏み入れた瞬間、俺は自分の眼を疑った。
先ほどまで真っ暗だった店内が、まぶしいくらいに明るくなっていた。内装も明るく、可愛らしかった。あの外見からこの内装を想像できる人間はまずいないだろう。
「楓ちゃん、入り口でなにしてるの?」
店の奥の方から、小梅の声が聞こえた。
「何でもないよ」
俺は返事をすると、小梅のところに向かうのだった。
「最初に来たときは私も驚いたな。驚かない人はいないと思うけど」
「だよな――いったい、どんな趣味してんだ、ここの店主は」
「さぁ――それじゃ、入ろうか」
「入るってここ店内なんだろ?」
「うん。だけど、品物置いてないでしょ?」
見渡してみても、確かに商品はおろか、店員すらいなかった。おまけに異常なほど扉が多い。言われてみれば、確かにおかしい。
「ここはね、おまじない屋なのよ。この廊下をまっすぐ行くと受付があって、自分の願いに応じた部屋を紹介してくれるの。3年前に紹介されたのは入口に一番近い部屋だったから、ここで間違いないよ」
小梅はそう言うと、目の前のドアを開けた。部屋の中は薄暗く、奥の方に人影がうっすらと見えた。
「お譲さん方、早く入ってはくれんか? わしにはちとまぶしい」
「あ、すみません。楓ちゃん、早く入って」
「あ、あぁ」
俺は急いで部屋の中に入った。小梅はそれを確認すると、ゆっくりとドアを閉めた。
「さて、いったいどのようなご用件かな?」
ほとんど何も見えない室内で、しわがれた低く不気味な声だけが奥の方から聞こえた。
「その、相談があるんです」
「相談なら受け付けに行くんだな。お譲さんの願いをわしがかなえられるとは限らんよ」
「いえ、その……実は、3年前に一度この店に来て、お爺さんを紹介してもらったのです」
「3年前――さて、わしの術に不具合があったのなら、いくらなんでも遅すぎはせんか?」
「実は、間違えて俺がかかったんですよ。その術に」
珍しく歯切れの悪い小梅に代わり、俺が事情を離した。3年前、小梅が箱を開けなかったこと。それを知らずに昨日俺が箱を開け、紙に触れたこと。そして、今日の朝目が覚めると今の姿になっていること。周りが元の自分のことを忘れているのになぜか小梅だけ覚えていることなど、すべて話した。
話し終えた後、室内を不気味な沈黙が支配した。隣から小梅の呼吸音だけが聞こえ、心臓の音がうるさく響く。
「それは、無理だな」
あまりにも突然に話し始めたため、俺にはその意味が理解できなかった。
「あの、すみません。もう一度言っていただいてもいいですか?」
控えめな小梅の声が響いた。
「元の状態に戻すことは、無理だ」
今度ははっきりと聞こえた。俺はその言葉を咀嚼した。そして、その意味を理解すると、体から一気に力が抜けた。
「どういうことですか?」
「そのままの意味だよ」
「それじゃ、兄貴は楓ちゃんになるしかないんですか?」
「そうは言ってない」
俺の頭に大きなはてなマークが浮かんだ。
「どういうこと、ですか?」
そう言った小梅の声も戸惑いの色が含まれていた。俺も視線を声のする方に向けると、爺さんの返事を待った。
「元の姿には戻れる。それ自体は簡単だ。あの紙を破る。それだけでいい。だが、あの紙を破るということは、術の源――そこのお譲さんが消えることになる」
「つまりは――」
「そこで座り込んでいるお譲さんが元に戻るためには、あんたが消えないといけない、と言うことだよ」
室内は薄暗く、俺のところから小梅の表情は見えない。
再び静寂が訪れた。
爺さんも小梅も俺も、だれも何も言わず、ただ時間だけが過ぎていた。
「本当に、それしかないんですね?」
小梅の声が部屋の中に響いた。その声は低く、何かまよっているようだった。
「間違いないよ」
「そうですか……もうひとつ、いいですか?」
「どうぞ」
「兄貴はいつ完全に楓ちゃんになってしまうんですか?」
「今日の0時頃だ」
「……ありがとうございます」
「用がすんだら、相談料を置いて帰ってくれ」
「いくらですか――はい、これでちょうどですね。兄貴、行くよ」
少しして、部屋の中にまぶしい光が入り込んできた。光源をみると、ドアのところに人影が見えた。
「お腹すいたし、どこか入ろ」
「あ、あぁ」
小梅の声はどこか有無を言わせないものがあった。
俺達は店を出ると、近くのショッピングモールを目指して歩き出すのだった。
「疲れた……」
俺は便座に腰かけると、呪屋で聞いた話を思い出していた。
俺が元に戻るためには、小梅が消えなくてはならない。だけど、俺がこのまま楓になれば小梅は消えないで済む。
「消えるって……どういうことだ?」
消えるっていうのは、どういうことだ?
俺がこの姿になったとき、青柳土筆のことを覚えているのは小梅だけだった。これはつまり、変わったということだ。
それじゃ、消えるということは……まさか――?
「そろそろ、でるか」
俺はトイレットペーパーを捨てると、水を流して個室を出た。
――もしも、消えるというのが俺が考えている通りだったら……
「俺が――なるしかないか」
俺は手を洗うと、トイレを出て席に戻るのだった。
「――楓ちゃん?」
席に戻ると、小梅が不思議そうな声で俺を見ていた。
「どうしたノ、小梅、オネエチャン?」
ここでは人目があるので、俺は口調に気を付けて返事をした。
返事を聞いた小梅は大きく息を吐くと、安どの表情を浮かべた。
「どうしたノ?」
俺が尋ねると、小梅は困った顔になった。鼻頭をかきながら窓の外を見ると、そのまま黙ってしまった。
俺はコップを持つとゆっくりと飲んだ。その様子を小梅は横目で見ている。
「本当に、どうしたノ?」
俺がもう一度尋ねると、小梅は大きな溜息をつくと、気まずそうな顔になった。
「その……今――もうちょっと前あたりからか。兄貴の仕草がさ、違和感なかったんだ」
「どういうこと?」
「この店に入ってトイレに行ったとき、迷わずに女子トイレに入ったでしょ。その時の走り方が女の子走りになっていたし、戻ってきたとき、普通に内股になってたし、それに――ほら、それとか」
「それ?」
「今、髪の毛を手で直したでしょ。そんな何気ないしぐさとかが、普通に女の子らしくて……楓ちゃんと同じだんだ。だから、あのお爺さんが間違えてて、もう兄貴は楓ちゃんになっちゃたのかって思ったんだ」
言われて視線を右にずらすと、右手で髪の毛を触っていた――いつの間に、触っていたんだ?
そう言えばさっきも、全く違和感なしにトイレを済ませなかったか――?
「だけど、まだみたいでよかったよ」
「そんなに、変わっていたのか……」
「うん」
どうやら、迷っている時間はあまりないらしい。
「小梅、お姉ちゃん。たの――お願いがあるんだけど、イイ?」
「なに?」
「この後、付き合って欲しノ」
「付き合うって、何に?」
「なんでもいい、ワよ」
小梅は黙りこむと、心配そうな顔になった。
「やることはやったから、いいじゃ、ナイノ?」
小梅は考える顔になると、下を向いた。表情は読めない。
「まぁ、いいけど……」
「ありがとウ」
ちょうどいいタイミングでウエイトレスがくると、頼んでいた物を置いた。
「行き先は、食べながら相談する?」
「ウン」
俺はお絞りで手を拭くと、食事を始めるのだった。
「本当にここでいいの?」
「あぁ」
俺の希望で、俺達はゲームセンターに行くことにした。
だけど、俺達が今いるところの周辺にあるゲームセンタ―と言えば、ショッピングモール内のゲームコーナーしかなかった。
ゲームコーナーと言っても、それほど粗悪なものではなく結構充実している。俺達は格闘ゲームの媒体がある一角に入ると、たまに家で一緒にやっていた奴に座った。
「――あれ?」
「楓ちゃん、どうしたの?」
「いや、なんでも……」
試合は結構白熱している。だけど、俺の気持ちはいつもとは違って全く熱くならなかった。
「小梅お姉ちゃん。そろそろ終わらない?」
「いいけど――お金なくなった?」
「いや、そうじゃないけど……」
小梅は不思議そうな顔でこちらを見ている。俺は黙って席を立つと、小梅は何も言わずについてきた。
「まぁ、楓ちゃんがそう言うなら良いけど、この後どうする?」
俺はゲームコーナーの中を見渡した。レーシングゲームや麻雀ゲーム、クレーンゲームなど沢山あった。
「あれ、やってみないか?」
「え! ま、まぁ……私はいいけど……本当にあれ?」
「あ、あぁ」
そんなゲームコーナーの一角に写真シール機――俗に言うプリクラコーナーがあった。
俺はいままで小梅のプリクラ手帳を馬鹿にしていた。写真なら、普通にカメラで撮った方がいいだろうと思っていたからだ。
なのに今、俺はあの機械を使いたくてうずうずしていた。小梅は俺が選んだのでいいと言うので、俺は何となくひかれた物を選び、中に入った。
設定を行い、写真を取るとすぐに印刷されて出てきた。そこには、当たり前だが今の俺と小梅が映っていた。
「はい、これ。楓ちゃんの分」
「あ、あぁ」
なんだか、心が弾む。
「もう一回、する?」
「い、いいのか?」
「うん――あれなんか、お勧めだよ」
よほど俺が楽しそうに見えたのだろう。小梅はそのあとコーナーにあるほぼすべての媒体をやらせてくれた。
「結構、撮ったね」
「そう、ネ」
手提げかばんの中には、撮ったプリクラで埋め尽くされていた。自分のことながらなんだか恥ずかしい。
「手帳、買う?」
「手帳?」
「そ。プリクラを張る手帳。それだけあると、買わないと大変でしょ?」
「そ、そうネ」
俺達はゲームコーナーを後にすると、モールの中を歩くのだった。
「ちょっと、寄り道していく?」
「い、いいノ?」
「まだ、母さんたちとの待ち合わせまで時間あるから」
今まで、気にしたことなどなかったが、手芸品の専門店や女の子向けの服屋にアクセサリーショップ。そう言った物が眼に入ると心が躍った。
そんな俺の様子を察したのか、小梅は一店一店案内してくれた。
「ほんと、変われば変わるものね」
「し、仕方ないデショ。楽しいんだから」
自分で自分の顔が赤くなっているのが分かる。
服が2着にアクセサリーが数点、ミシンや裁縫用の糸や多種多様な布が多数。そしてプリクラを張るための手帳が一つ。それらが入った袋を地面に置いて、俺達は待ち合わせ場所近くのベンチに腰掛けていた。
「まぁ、楽しかったならいいけど……ちょっと、トイレに行ってくる」
小梅はそう言うと、駐車場の方へ小走りで向かった。俺はベンチに深く腰掛けると天井を見上げた。
「ほんと、どうしたんだろ」
好きなゲームはまったく面白くないし、今まで関心がなかったり小馬鹿にしていた物が楽しくて仕方がない。仕草のことだってある。
「それだけ、かわっちゃったってことなのカナ……」
周りの認識が変わり、仕草が変わり、嗜好が変わった。時計をを見ると0時まであと6時間程だった。
「次は、何が変わるのカナ……」
そもそも、俺のすべてが本当に変わってしまうのだろうか?
嗜好が変わっても、思考が変わったわけではない。だけど、あの紙には性格についても書かれていた。
「さから、思考も、考え方もこの先変わるかもしれないヨネ。だけど――」
記憶は、俺と小梅の記憶は無事かもしれない。
それなら……俺は消えるわけではないはずだ。だったら……
「お兄ちゃんとしては、妹は守らないとだめ、だよネ。だったら……」
呪いを解くわけにはいかない。やっぱり、それしかない、か。
「楓、小梅は?」
「トイレだって」
「そう。冬牙さん。先に行って並んでおいてくれるかしら?」
「分かった」
前からママの声がして、俺は視線を戻した。そこには、母さんが袋を両手に持って立っていた。
「車に積見に行こっか?」
「う、うん」
俺は立ち上がると、残りの袋を持った。途中でトイレから出てきた小梅と運よく会い、俺達は車に荷物を運んだ。
「それじゃ、行きましょうか」
俺達は小さく頷くと、ママの後について歩いた。
「えらく、嬉しそうだな」
「だって、嬉しいじゃない。楓が私の母校に入るのよ」
30分程ならんで、オレ達は回転寿司に入った。テーブル席に座るとママが嬉しそうに話し始めた。
「どうせ、私は嫌がりましたよ」
「小梅ちゃん、すねないの。それで、楓ちゃん。今日は何を買ったの?」
「えっと、今度新しく作るお洋服の布と刺繍用の糸、それからアクセサリーと服かな」
「今度はどんな服を作るの?」
「ノースリーブのワンピースとケープを作ろうと思うの。袖口と裾と、あと左胸のあたりに刺繍を入れたりしようかなとか考えているの」
「また、手がこんでそうね。出来上がるの楽しみね」
「そういえば、小梅は高校に入ったら部活はするのか?」
「うん。今度は硬式テニスをしようかなって思ってる」
「また運動部なの?」
「別に良いじゃない。女の子らしいことは全部楓ちゃんがしてくれるんだから」
「そうはいってもねぇ」
どうやら、ママはこちらでも小梅お姉ちゃんを女の子らしくすることを完全にあきらめたわけではないらしい。だけど、相変わらず小梅お姉ちゃんはどこ吹く風だった。
「小梅お姉ちゃんも、料理くらいは少しは覚えた方がいいよ。あれじゃ、食べた人が死んじゃうよ」
「それは、言いすぎよ。ね、母さん――なによ、その眼は。父さんも」
「楓の言う通りよ。あれじゃ、嫁の貰い手がないわ」
「独身でいるからいいよ」
「それはそれで、一人暮らしでも料理できないと困るぞ」
「食べれたら問題ないじゃない」
「あれは、人の食べるものじゃないと思うわ」
「ひどいわね――そだ、楓ちゃん。トイレに行くんだけど……一緒に来ない?」
「いいけど……」
小梅お姉ちゃんの眼はどこか心配そうな、何か言いたげだった。
「それじゃ、先に車に戻っているから、トイレを済ませたら来てね」
「分かった」
ママ達はレジに向かい、ワタシとお姉ちゃんはトイレに向かった。
「兄貴、大丈夫?」
「アニキ――あ、そうか。私って、お姉ちゃんのお兄ちゃんだったっけ」
お姉ちゃんが悲しそうな顔で私を見た。そして、大きく深呼吸をすると私の方を両手で掴んだ。
「アニキ、黙ってたけど……もう、分かっているかもしれないけど、アニキの記憶もなくなっちゃんだ。昼間、呪屋で詳しく聞いたから」
「いつの間に聞いてたの?」
「アニキが腰を抜かしている間に。だけどね、私の記憶はなくならないんだって。呪いを依頼した人は自分のかけた呪いに関しては両方の記憶を持つことになるんだって。だから……」
「分かってるわ。大丈夫。私は破ったりしないから。だから安心して」
「ごめんね」
「いいのよ。気にしないで」
私はお姉ちゃんに笑いかけた。お姉ちゃんは私の手を握るとそのまま引っ張った。
「行こうか」
「うん」
私はお姉ちゃんと一緒にトイレを出た。店の出口付近に掛けられていた時計は既に午後9時を回っていた。
家に帰ったとき、既に11時を回っていた。途中、道路工事のせいで渋滞があったから、時間がかかったみたい。
「そうだ。お姉ちゃんに今日のお礼を言わなくちゃ」
今日のお姉ちゃんは気持ち悪いくらい親切だった。今日は友達と出かけるって言っていたのに私に付き合ってくれた時点でなんだか怖い。
「お姉ちゃん、いる――って、何見てるの?」
「あ、アニキ……」
「何言ってるの?」
私はお姉ちゃんの妹なのに、おねえちゃんは私を兄貴と呼んだ。そもそも私は女の子なのに、失礼だと思う。
「あ、ごめんね楓ちゃん。何か用?」
「うん。今日のお礼を言おうと思って」
「気にしなくていいよ。それだけなら、用事があるからちょっと外してくれる?」
お姉ちゃんの声は申し訳なさそうだけど、声色が少し怖かった。
「うん、分かった。だけど――それ、見せてくれないかな?」
「え、あー……見せるだけ、だよ?」
だけど、さっきまでお姉ちゃんが見ていた紙が、気になって仕方がなかった。それに、お姉ちゃんに兄貴って言われた時、なんだか、とても嫌な予感がした。
私はお姉ちゃんから一枚の紙を受け取った。紙には、怖いお兄ちゃんの絵が描かれていた。イラストの隣には趣味とか性格とかが書かれていたけど、そのどれもがその見た目通りの怖い男の人らしいものばかりだった。
「これ、どうしたの? もしかして、お姉ちゃんの……」
「ち、違うわよ。誰がこんな奴のこと。いらないから、破っちゃおうと思ってたのよ」
「破っちゃうの?」
「そうよ。見たなら、返してくれる?」
「うん――もうちょっとだけ待ってね」
見れば見るほど、ブサイクでいいところがないと思う。だけど、なぜか懐かしくて、大切なもののような気がした。それに、これを破ると大変な事が起こる。そんな気がした。
「ごめん、お姉ちゃん。これ、貰って良い?」
「え、だ、だめよ」
「だって、いらないから破るんしょ?」
「そ、そうだけど……そんなの持っててもゴミなだけでしょ?」
「いいの。なんだか気にいっちゃったから。ダメかな?」
「もちろんよ。それは、破らないとだめなの」
「どうして?」
「それは――」
お姉ちゃんは困った顔で私を見た。こんな顔のお姉ちゃんは初めて見る気がする。だけど、何があっても渡すわけにはいかない。なぜか私はそれだけは譲れない気がしていた。
「あ――」
「ど、どうしたの、おねえちゃん」
「う、ううん。何でもないよ。楓ちゃん、それ、そんなに欲しいの?」
「うーん……やっぱりいいや」
「そう。なら、やっぱり私が持ってるわ。よく考えると、とても大切なものだったから」
「そうなんだ」
携帯のアラームが午前0時を知らせると、お姉ちゃんの態度は急変した。
先ほどまでの迷ったような、急いでいるような、そんな複雑な表情から一転して、寂しそうな、悲しそうな顔でその紙を見ていた。
「それじゃ、明日の朝は早いし、私は寝るね」
「うん。おやすみ」
「おやすみなさい」
私はお姉ちゃんの部屋から出ると、自分の部屋に戻った。
私はベッドにもぐりこむと、目覚ましをセットして眠りにつくのだった。
睡魔が私を夢の世界にいざなうその時まで、私の瞼の裏にはさっきのお姉ちゃんの顔が焼き付いて離れなかった。
「好きな人、だったのかな?」
そう呟くと、何だかそんな気がしてきた。
そう思うと、急に眠気が強くなり、私は心地いい夢の世界に旅立つのだった。
古風な木造の校舎を一人の少女が若い女教諭の後ろを歩いていた。
少女の服装は薄桃色の衣に黒い袴をはいていた。古風な服だが、それがこの学校の制服だった。
「ここが、教室よ」
「はい」
教諭が先に入ると、少女もそれに続いた。
「はい、みなさん。新学期の初めですが編入生を紹介します。青柳楓さんです」
名前を呼ばれた少女は頭を下げると、顔に笑みを浮かべた。
「青柳楓です。家の事情でこの春からこの町に住むことになりました。趣味は裁縫や刺繍など手芸全般とお料理です。よろしくお願いします」
明るい声でそう言うと、楓は深く頭を下げた。
「青柳さんの席は――窓際の席の一番後ろの席ね」
「はい」
楓は教諭に頭を下げると席に向かって歩き出した。
右を見ても左を見てもどこを見ても女子しかいない。ここは女子高なのだから当たり前かもしれないけど、公立の小学校に通っていた私には新鮮なものだった。
これから、全く違う環境で新しい生活が始まる。
私は、胸を躍らせながら席に着き、ホームルームの連絡を聞くのだった。
Copyright (c) 2010年5月6日 山田天授 All rights reserved.