因果応報

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 茜雲が綺麗だった。
 夕日色に染まる道をスーパー袋を持った主婦や甲高い声をあげながら駆ける子どもたちが行きかっていた。
「くそ、あの野郎……」
 人々が住宅地の方へ向かっている中、高田直人は一人逆走していた。
 しかもかなり機嫌が悪いようで、顔中に怒気の色を浮かべ、口からは小声で恨み事を洩らしていた。
「なんだよ、なんか文句あんのか」
 独り言を小声で呟いている直人を周囲の人々は奇異の目で見ていたが、彼が睨みつけると視線をずらして足早に去った。
「ち、いちいちむかつく奴らだ」
 直人は道路に唾を吐き捨てると空を見上げた。
「くそ、なんたって俺がこんなことをしなくちゃならないんだよ。これもすべて俺が後に生まれたせいだ」
 直人は大きな溜息をつくと、前を向き、少し歩調を速めた。
 面倒事は早く済ませたい。それが彼の願いだった。

 高田直人の家は4人家族だ。サラリーマンの父にOLの母。そして三つ上の兄の直也。
 両親が共働きと言うこともあり、幼少期から直也と一緒に過ごすことが多かった。しかしこれは彼にとって苦痛以外の何物でもなかった。
 物ごころついた頃からお使いや雑用を押しつけられるのはもちろん、小学校の中学年あたりからは飯まで作らされている。
 これではまるで召使いだと高学年になった頃には思い始めていた。そしてその頃には直也に対して恨みににた感情を抱くようになっていた。
「これで、全部だな。たく、受験生だからって筆記用具まで買わせやがって――俺も受検だってのによ」
 そりゃ、高校受験と大学受験ではレベルが違うのかもしれない。だけど片方が家事全般に雑用に夜食まですべて作らされるのは明らかにおかしいと思う。
 まぁ、今更ではあると思うが。
「……なんだ、これ?」
 レジに向かおうと、本売り場の前を通りかかった時だった。直人の目に一冊の本が入った。
「――逆転の法則?」
 おそらくは思考パターンについて書かれた本なのだろう。日ごろからこう考えておくといいとかなんとか、きっとそんなことが書かれているのだろう。
 だけどなぜだろう。スーパーの本売り場に置かれているのが不思議な本の雰囲気は。明らかに一冊だけ浮いている。
「……誰も気づかないのか?」
 雑誌や雑学の本が置かれている中、真っ黒のハードカバーに金字で書かれた怪しい本を、だれも手に取ろうとはしなかった。
 おそらくは皆見るまでもないしょうもない本だと思っているのだろう。本の厚さだって、他の雑誌と同じくらいだし。
「値段は、書いてないのか」
 直人はそれを籠に入れると、最寄りのレジの最後尾に向かって足を向けた。

「遅いぞ」
 直也は開口一番に文句を言うと右手を差し出した。
「……はい、頼まれてたの」
 直人は袋から消しゴムとポテチを取り出すと直也の手の上に載せた。
 手の上に置かれたそれらの物を左手に持ち替えると再び右手を差し出した。
「――なに?」
「お釣りよこせ。俺からお袋に渡す」
 直人は大きな溜息をつくとポケットからお釣りを取り出した。
「晩飯、早く作れよな」
 直也はそれを受け取ると玄関を後にした。
「……どうせ、渡さないくせに」
 直人は溜息をつくと靴を脱ぎ、袋を持ってリビングに入るのだった。

 お米を洗って炊飯器のボタンを押すと、直人はあの本を持って自室に戻った。
「…………」
 直人は本の表紙を無言で見つめていた。
 彼の脳裏には、本を買った時の事が嫌でも思い出されていた。
 レジの人は本をに気付かないのか籠から出さず、そのまま会計を済ませてしまったのだから、さすがにこれはおかしすぎる。
 おまけに、かう前にどうして立ち読みしなかったのかと今更ながらに思う。考えれば考えるほど、この本は怪しすぎた。
「ま、考えていても仕方がないか」
 直人は大きく息をはくとゆっくりと表紙をめくった。
 彼は無言で、黙々と頁をめくった。
 5分、10分、15分……部屋には彼の息使いだけが規則正しく響き、たまに神をこする小さな音がそれに混じるだけだった。
「あまり、信じられる内容ではないが……できそうなのはこれだけか」
 直人は本を左手に持ちながら、右手でノートパソコンを開いた。
「ホームページって、なんでひとつだけ現代化されてるんだよ」
 直人は苦笑を浮かべながらパソコンの電源を押した。
 電源を押してから起動するまで以外に時間がかかるのがパソコンと言うものだ。直人はその時間を利用して本の内容を反芻していた。
 まず、本の内容は怪しげな儀式の方法で満ちていた。
 天邪鬼とか言う鬼を呼びだす方法から俗に悪魔と呼ばれている者たちを呼びよせる方法。さらには本当に願いのかなうという神社の情報まで載っていた。
 しかしそのどれもが場所が遠いか、庶民では手に入らないような高価なものが必要だとかでできそうになかった。
 そんな中、一つだけ手ごろなものがあった。なんでもインターネット上に自分の恨みを晴らすことができる――本の内容を信じるならば、恨む相手を自由に変えることができるというサイトがあるらしい。
 もちろん代償は必要らしいが、悪魔との取引のように魂やら寿命が持って行かれるわけではなく、ただ恨みの内容を一緒に送信しなければならないというものすごく軽い物だけでいいというすばらしさだ。
「えっと、URLは……」
 検索エンジンには登録していないらしいので、本に書かれたアドレスを直接入力する。すべてを打ち終わりクリックすると目的のページが現れた。
「すげー、本当にあった」
 ここに来て、直人は少し怖くなった。
 しかし入力することができるのは恨みの相手の名前、年齢、写真の添付覧、住所、恨みの内容、そしてどのように変えるのかと言う内容がずらり。
 変える内容にしても新たな名前だとか年齢だとか、身体的特徴だとか趣味だとか、とくに害のあるものではない。
 もしかしたら通信記録から送信者を割り出して、いろいろと悪用されるのではないかと疑ったが、それではあの本の不思議さが説明できない。
 レジの人も、スーパーに来た客も、だれ一人として気付いた素振りを見せなかったあの不思議さは、人知の及ばない物だと言われた方がまだ信じられる。
「ま、試してみるか」
 直人は開き直ると、恨む相手のところに兄の名前を打ちこみ、項目を一つずつ埋めるのだった。

――送信ありがとうございます。送信された内容はすぐにでも実現可能ですが、それでは信じていただけない可能性があります。このため、内容の実現は次に恨みの相手にあったときに、あなたの目の前で実現します。恨みの相手が目の前で変わっていく様をお楽しみください。
 また、私どもの都合で申し訳ございませんが、変更が完了した段階で、我々に関する記憶、情報源は削除させていただきます。あらかじめご了承ください――
 送信完了後に表示された文字列を、直人は黙って見つめていた。
 その顔には信じられないと言う気持半分、本当になったら面白いなと言う気持ちが半分。そして本当になったらなったらでなんだか申し訳ない気持ちが雀の涙ほどあった。
「試してみるか」
 直人は低く小さな声で呟くと、パソコンの電源を切った。
 それにしても、と思う。
 もしも本当だったら、周りの人の記憶はどうなるのか。送信者の記憶が消えるのが都合と言うことは、他の人の記憶もいじれると言うことなのだろうか。
「ま、それもすべて本当だったらの話だ」
 直人は兄の部屋の前で大きく深呼吸をするとコンコンとドアを叩くのだった。

 しばらく待っても誰も出てこない。どうやら無視されているらしかった。
 直人は姿勢をただすと再び扉を叩いたが、またしても返事はない。二度も無視されるとさすがにいらっとくる。
「もう一度だけ、もう一度だけだ」
 直人は大きく深呼吸をすると、少し強めにドアを叩いた。すると部屋の中から大きな怒鳴り声が聞こえ、ドアが勢い良く開いた。
「晩飯ができたならメールで知らせろって言ってんだろ――?」
 竜頭蛇尾と言う言葉がぴったりな声の調子だった。
 直也の声は最初こそ威勢が良かったが後になるほど小さくなり、最後の方は視線を自分の体に向けていた。
「な、なんだぁ!?」
 同じ言葉を直人も叫びたかった。直也の首と腹の間あたり――胸板あたりのTシャツが内側から押し上げられていた。
「お、おい。そうなってんだよ」
 直也はわけのわからないという顔になると、両手を頭の上に載せた。
 彼の両手の下で彼の髪の毛が手に巻きつきながら伸びて行き、それと同時に背も縮み始めた。その頃には胸の膨張も止まり、そこには見事な双丘が出来上がっていた。
 ここにいたって直人はついに確信した――あの頁が本物であることを。
「女になるんだよ、もっとも、それで終わりじゃないけどね」
「そ、そんなことできるわけないだろ!」
 怒鳴ってきた声はすでに高く、顔立ちも元のニキビだらけの醜い顔が嘘のような美形に変わっていた。腰まで伸びた髪も艶やかで、とても綺麗だった。
 すっかり男物のシャツとズボンを履いた美女と化した直也だが、変化はそれで終わりではなかった。
「だとしたら、その服は何なのかな?」
「なに?」
 二人の目の前で、直也のTシャツはその形を変え始めた。
 腰回りや片袖の布地が少し減ると質感が柔らかくなり、色も白くなった。さらにデザインも綺麗に、そして刺繍やレースがあしらわれた華やかなものに変わった。
「こ、これは……」
 女物の下着であろうことはだれの目にも明らかだが、直也はそれを認めたくはないようだった。
 彼が言い淀んでいる間に、今度はどこからともなく一枚の白い布が現れ体に巻きついた。
 直也は両手でそれを取り除こうとしたが、布には何らかの意思が働いているのか全く意に介さずに形を変えて行き、あっというまに一着のワンピースと化した。
 その頃にはズボンはどこかに消え失せていた。
「どう見たって女物の服だろ――ほら、部屋も見てみろよ。すっかり可愛くなってるよ?」
 直人に言われて直也は自分の部屋を見た。そしてそのまま固まった。
 全体的に明るい印象を受けるカーテンやカーペットの色。部屋のあちこちに飾られた可愛らしい人形、そして一度も読んだことのない、題名すらしらない本の数々が納められた本棚。
 そのどれもが本来の彼の物ではなく、また目にした事のないものだった。しかし、彼を硬直させたのはこれらの中にはなかった。
「うそ、だろ」
 部屋の中に置かれたひときわ大きな鏡。それはちょうど入口の向かい側に掛けられていた。
 今そこには、10代後半の美女と化した直也が映っていた。そこには元々の彼の面影など微塵もなかった。
「言った通りだろ、女になるって。あのときにはすでに服以外は変わってたよ」
 本当は原因も知っているが、そのことには全く触れずに直人は言った。
 しかし直也は鬼のような形相で直人の方を向くと、腹の底から響く声で言った。
「元に戻せ」
「僕は何も知らないよ」
 直人はジェスチャーも混ぜながら、本当に知らないと言った風を装ったが、直也の表情は変わらなかった。
「さっきお前はこれで終わりじゃないって言ったな。つまりお前はこの原因と末路を知っているってことだ。それなら原因を除去する方法も知っているはずだろ」
 直人は一瞬しまったと顔になったが、すぐに笑みを浮かべた。
「だとしたら、どうする?」
「腕づくで止める!」
 すっかり細く頼りなくなった手で、直也は直人につかみかかった。
 しかしそのつかんだ手がどんどん直也の頭上に移動していき、手もさらに小さく、頼りない物に変わって行った。
「言っただろ、それで終わりじゃないって」
「ど、どうなってるんだ。お前いったい俺に何をした!」
 直也の身長はさらに小さくなっていた。直人の身長が170ちょいだから、だいたい140〜145cmくらいだろうか。
 顔立ちも幼く、先ほどまでちょうどのサイズだったワンピースもブカブカになり、美女と言うよりかは美少女と言った方がいい雰囲気に変わっていた。
「部屋の中を見たらわかるんじゃないかな?」
「なんだと!?」
 部屋を見た直也はまたもや硬直した。
 大まかな内装は変わっていないが、目の前に映る鏡に映る姿はまだ年端も行くぬ少女の物であり、どう見ても小学校高学年かよくても中学一年生くらいにしか見えなかった。
 しかし、机の隣にある物体――真っ赤なランドセルが今の自分の身分を嫌と言うほど直也に示していた。
 ここにいたって、直也は自分の置かれた状況を、自分が何にされたのかを理解した。そして自分が今までしてきた事がそのまま帰ってくるであろうことを想像し、恐怖した。
「いつも兄貴は、おっと直美が俺の兄貴だったときは、いつも年下は年上の言いなりになる物だって言って威張ってたよな」
「だ、だとしたらどうして女の子にしたの――あれ?」
 直美は大きく眼を見開くと口に手を開けた。いつの間にかワンピースは今の彼女に丁度のサイズに変わっていた。
「一つは男だと下手をすれば力負けするかもしれないから。もう一つは、どうせ食べるなら弟より可愛い妹の手料理のほうがいいだろ」
「そ、そんなことより、私に何をしたの、お兄ちゃん?」
 顔を赤くしながら可愛らしい口調で尋ねてくる元兄を笑いながら見下ろすと、直也は自分が何をしたのかをすべて伝えた。
 スーパーで怪しい本を拾った事。そしてそれに書いてあるサイトで兄を妹に変えた事。そしてどんな妹に変えるつもりなのかをすべて伝えた。
「そ、そんな……いや!」
「ほら、そろそろやりたくて仕方がなくなってきただろ?」
「うっ……い、いや――じゃない……お兄ちゃん、晩御飯作ってくるから、部屋で待っててね」
「あぁ」
 直人は涙を流しながら笑みを浮かべている直美を見送ると、彼女に背を向けた。
「――あれ。俺はいったい……」
 直人は突然呆けた顔になると周囲を見渡し、そこが直美の部屋の前であることを確認すると、何かを思い出したように手を叩いた。
「そうだ。直美の手伝いに行くところだったんだ。あいつまた手伝わなくてい言うだろうけど、可愛い妹一人に仕事させるわけにはいかないよな」
 彼はそう呟くと、ゆっくりとした歩調でキッチンの方へと歩き出した。


「したくないのに、したくて仕方がない……これも全部お兄ちゃんのせいだよ。はぁ……」
 あれから数日が経った。
 直美はいやいやながらも(表面上は喜んで自分からしているように見えるが)家事をこなし、小学校に通っていた。
 大学受験を控えていたのだから相当な知識があったはずなのに、どういうわけか思いだせず、小学校レベルの算数に苦労したり、男子にからかわれて思わず泣いてしまったりと毎日のように屈辱を受けていた。
 しかもどういうわけか、自分をこんなふうにした本人はその事を忘れているようだった。むろん周囲の人々も直也の事など覚えてはいなかった。
 だからこんな短期間でも、彼女が自分を今の状況に追いやった直人に恨みを抱くのには十分な時間であった。
「あれ……これって――」
 リビングの掃除をしていると、机の上に見慣れない本が置かれていた。
「ぎゃくてんの……なんだろ、なんてよんだっけ?」
 直美はそれを手に取ると大きな溜息をついた。ここまで知識が減ると正直嫌気がさす。
 けれども、よめなくても、彼女にはそれがなんであるのかを漠然と、感覚的に理解していた。
 あの日、直人が自分に言った怪しい本とは、きっとこれなんだろうと――
「これを使えば――よし」
 直美は大きく頷くと、掃除の手を休めてそれを自室に持ち帰った。
 今の自分の頭でこれを理解しようと思ったら辞書と、漢字辞典がいるだろう。人に聞くわけにはいかないからかなり時間もかかると思う。
 だけど――
「ぜったいに……仕返しするんだから」
 直美は自分にそう言い聞かせると、自室を後にし、ひとまずは家事を再開するのだった。

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